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DATUMS 1992.02
ピースボートの樺太・千島

福富 節男  元東京農工大学教授、樺太出身



  日本の行った戦争をみつめなおし、未来の平和をつくりだそうと、1983年に「ピースボート」という運動が若者たちを中心に始まった。過去の戦争の地に大型客船をむけ、洋上で学習し、訪問地の人々と直接に交流し、語り合うのである。これまでにサイパン、フィリピン、ベトナム、中国、韓国、朝鮮…などへ行った。参加者も幼児から80歳の老人まで、職業もまちまちであった。91年9月には、まずこれまで軍港として外国船の入港を許さなかったコルサコフ(サハリン島旧大泊)に入り、サハリン、千島とまわった。この船上からカメラを向けるのもおかまいなしであった。
  「ピースボート」の講師の一人として、フョードロフ・サハリン州知事と会談した際、知事はサハリン州と北海道に限ってのビザなし自由往来を希望する、サハリン側には税関設備の不備以外に何の支障もないと力説した。首都ユジノサハリンスク(旧豊原)のホテルのうち日本の協力で設備を改善したものもあるが、それでも日本人には甚だしい不備が目に映るだろう。この都市の人口は日本時代の4倍半にもなったが、上水道の保守、拡充が不十分で、一部は河川の水がそのまま利用されているという。昨年、水道事業について北海道に援助を求めてきた。ついでにいうとホテルのフロントでさえ英語は通じにくい。
  「ピースボート」はエトロフ、シコタン、クナシリの2島をまわった。「島民の意思を無視して島を返還したら、我々はお祖父さんの埋めた機関銃を掘り起こすだろう」というエトロフの新聞への投書(91年5月)があった。このジョークは島の人たちの気持ちをよく伝えている。クナシリは北海道のテレビが見れるせいか、日本経済への幻想も大きく、日本との共同管理に将来を託するという意見もエトロフより多かった。
  外務省は北方領土(南千島)へソ連ビザで渡航することも、ビザなし渡航も好ましくないとして、一般の渡航をやめさせてきた。「ピースボート」の千島行きについても、計画の発表以来外務省、運輸省は中止を連日執拗に要請し、圧力をかけてきた。ここでめげないのがピースボートの若者たちのよいところである。この150名もの大量渡島は外務省の指導方針への痛撃となった。ようやく旧島民、記者などのビザなし渡航を認めることになったが、漁業合弁の仕事なでハバロフスクやサハリンを経由してのビザなし渡航者も既にかなりいるようである。

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