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DATUMS 1993.11
バリを世界に紹介した男

小川 忠  国際交流基金職員

■おがわ ただし
 1959年生まれ。早稲田大学教育学部卒業。1982年国際交流基金入社。89年から93年まで同基金ジャカルタ日本文化センター駐在員。最近、日本インドネシア文化交流最前線の体験をもとに『インドネシア―多民族国家の模索』(岩波新書)を著す。


  インドネシアが誇る国際リゾート、バリ島。今年も世界各国から様々な階層の観光客がこの島に足を踏み入れた。「神々の島」「祭りと芸能の地」「地上最後の楽園」。こうしたバリ・イメージに支えられて現在の観光産業の隆盛がある。バリの観光ブームは、実は70-80年代に始まった話ではない。第2次世界大戦前の30年代にも、ちょっとした観光ブームがあり、島はチャーリー・チャップリンなど欧米の著名人たちを迎え入れた。文明に疲れ南海の楽園を求めてバリを訪れる欧米人の間で、必ず話題になる一人の芸術家がいた。ドイツ人の画家・音楽家ウォルター・シュピース。彼の周囲に集った一流の芸術家を通じて、芸能の島などのバリ・イメージはこの時期から世界に流布していった。シュピースの解説でバリの文化に触れた人々は魔法にかかったようにバリに魅せられた。
  今、観光産業花盛りの中で、本当のバリとは違う「バリ」が一人歩きを始めているのではないかと感じることがある。本来なら一日かけて行う祭礼の舞を、ホテルの庭で一時間で見せたりする。随所で「見せる」ことを意識した演出が目立つ。一見華やかで隆盛を誇っているバリにも、観光をめぐるさまざまな問題が顕在化しつつある。近年シュピースを回顧する企画が続いているが、この再評価の動きは、消えてゆこうとしているバリへの挽歌なのだろうか。
  1927年から15年間、ウブドゥに定住したシュピースは、バリの人々と交流し彼らに影響を及ぼし、バリを世界に紹介する役割を果たした。彼の足跡は、絵画、舞踏から写真、著述に至るまで様々な分野に残っている。例えば、伝統的なバリ絵画を活性化させ、生き生きとした自然や、人間、風物を描くよう地元の人々に説き、絵画分野での「バリ・ルネッサンス」をもたらしたのは彼の功績だ。またサンヒヤンと呼ばれる土着の呪術的色彩の濃い踊りに手を加え。ラーマーヤナの舞踏劇形式に構成し直して「ケチャ・ダンス」を創始した。
  地元のネカ美術館に残る彼自身が描くバリの風景。その闇の深さは彼が幼年期を送ったモスクワの闇を連想させる。絵葉書の光り輝くバリとは全く別の世界。悲しみと諦め、そしてその自然風物に対する愛が闇の中に漂っている。シュピースはやがてくる自らの滅びと彼が愛したバリの変質を予感していたのだろうか。
  1940年、ナチス・ドイツはオランダに侵攻。ドイツ人であるシュピースはオランダ植民地政庁によって敵国人として本国送還となった。42年1月彼を乗せた輸送船は、日本軍の襲撃を受け、ニアス島近くで沈没、シュピースは南海の波間に消え、バリの「黄金の30年代」はここに終わりを告げた。そし後にはシュピース伝説が残った。

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