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DATUMS 1994.04
美味、美酒、佳宿を探求する

柏井 壽  歯科医

■かしわい ひさし
 1952年京都市生まれ。76年大阪歯科大学卒業後、歯科医院開業。生来の旅好きが嵩じて器を探し歩いた結果、“四季の器セゾン・ド・ジャポン”を、蔵元を尋ね歩いた結果、“ショット・バー吟”を開く。美味、美酒、佳宿を求め歩く旅は益々頻繁となり、結果、仲間友人間ではトラベルアドバイザーとよばれている。『旅』(JTB出版)『DANCYU』(プレジデント社)等に執筆。また、著書に『泊酒喝采』(朱鷺書房)がある。


  私にとって“理想の旅”とは“理想の宿に泊まる旅”である。旅の楽しみは数多あれどいい宿に泊まったときの喜びに優るものはない。しかしながら、しみじみと喜びを噛みしめてチェックアウトできる宿はそう無い。私の旅のプラン作りは宿選びから始まる。というよ“その宿に泊まるための旅”が殆どなのだ。
  先づもって巨きなやどは苦手。伊豆箱根や北陸などの豪華旅館で気持ちよく過ごせた試しが無いからである。騒がしい、料理に個性が無い、サーヴィスに心がこもっていない等々の理由で途中で帰りたくなってしまう。いや実際夜半にチェックアウトして帰ってしまった宿もある。カラオケつきの宴会場から嬌声が聞こえてきたり、二字会処がずらりと立ち並ぶ団体客重視の宿では個人客の疲れを癒すどころか却って疲れてしまう。料理もまた然り。土地の味をこそ楽しみにしているのに京風懐石なぞ出てくるとげんなりする。せめて地酒ぐらいはと思っても灘、伏見の大手ブランドの酒しか置いていない。朝は朝でバイキングと称して昨夜の残りものの始末をさせられたりする。年間百件近くの宿を訪ねてもこういう心配の全く要らない宿は数える程しか無い。
  有馬温泉の『御所坊』は風呂良し、部屋良し、味良しの三拍子そろった佳い宿で、唐津の『洋々閣』、由布院の『無量塔』と共に私の最も好きな宿である。これらの宿に共通して言えるのは“主の顔が見える”事だ。あれもこれもと客の要求に阿る事無く確固たる信念の下に佳い宿づくりに絶えず努力しつつも決して出過ぎることが無い。そんな主の存在が御所坊をいっそう魅力あるものにしている。
  無論、宿が旅の全てでは無い。だが、いい宿に泊まれば昼の食事処、周辺の見所、渋滞を避けるアクセスなど親身になってアドバイスしてくれる。小さな宿では無いのだが長野県大町にある『くろよんロイヤルホテル』総支配人の藤田豊さんなどは和い大阪弁で懇切丁寧に散歩道なんかを教えてくださるし、中棚温泉『中棚荘』の荘主富岡正樹さんは小諸で行きたい店があると言えば自ら連絡してご紹介くださる。慣れぬ旅先でのこうした配慮は実に有難い。他にも御紹介したい宿はあるのだが何分限られた紙数、残念。
  何より土地の味を大切にし吟味した酒も揃える心安らぐ宿を毎月一軒紹介せよとの依頼でこの四月から月刊『旅』で連載記事を執筆することになった。是非御購読を。
  旅は宿、宿は人である。「料理もおいしかったし、とても気持ち良く過ごさせていただきました」とこちらから声を掛けたくなる様な主の居る宿こそが我が理想の宿でありいその宿に泊まる旅こそが即ち理想の旅である。

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