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DATUMS 1994.08
レインボー号45日間の体験

小宮山 信之  在日アメリカ大使館アメリカン・センター。アドバイザー

■こみやま のぶゆき
 1945年生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業、同大学新聞研究所終了。日刊工業新聞記者、アメリカのVOA放送記者を経て、現職。日本サンタフェ協会、電脳翻訳21研究会の代表幹事を務める。編著書に『食べるための英会話』『ブッシュ大統領決断のスピーチ』(中経出版)などの他、記事・論文多数。


  漁火の中『レインボー』は豊後水道を経て一路なんか続ける。足摺岬が日本最後の灯火か、などと感傷にひたる間もなく46フィートのヨットは東に転舵、黒潮に乗った。1日180マイルと船足は驚異的に伸びる。5年越しの世界一周ヨット旅行中のアメリカ人夫婦にとって最後の長丁場となる太平洋横断に、私が助人として乗り組むことになったのだ。
  満月の夜―博多出港後6日目。青白く澄み渡った月光が周囲360度の海と空を驚くほど明るく照らす。7ノットで快走するレインボーが蹴立てる波の音と風の息吹きが心地よく耳に響く。快風快走のクルージングが続く。昼間の焦熱とはうってかわって夜は涼しい。1991年7月26日のことである。
  翌日には東経142度を越えて時計を1時間進める。そのご、数日ごとに時差調整と日付変更線で潮惚けのアタマを悩ませることになる。ときには空に浮かぶ雲を眺めては連想ゲームを楽しむ。日々変化する海を見てはいままで訪れた世界各地の海に思いをめぐらす。
  ヨットには思いがけない訪問者が現れる。一番人気はイルカかもしれない。太平洋に入ってからは、30〜50頭はいるだろうか、毎夕食事に登場する。カメラを向けたり話しかけるいつまでも伴走してくれる。いささか飽きてきて横目で見ていたりすると、プライドを傷つけられたかのうようにサッサと海中に没してしまう。ご機嫌がよいとなにやら鼻からグスグスなどと音を出して人間と遊んでくれる。最大のイルカ・ショウは嵐にときみることができた。疾風怒濤の中マストの高さほどもある波浪が頂点に達して崩れようとするその瞬間、3頭のイルカが飛込競技のようにジャンプする。次の波浪にはまた別の3頭が一組となって挑戦する。頭から飛沫を浴びながら暴風雨対策で作業中の乗組員を一瞬まぜてくれる。
  二度目の満月を向かえたのは8月23日。北緯46度12分、西経153度40分。何日も何日も続いた曇天が襖紙が破られるように裂け破れ落ちた。雲の切れ目からサーチライトのように月光が太い束、細い束となって無数に降り注ぎ、やがて面となった。翌日の航海日誌には「晴れ」と記され、その下にはアンダーラインが強く2本引かれていた。海は紺青色に変わり、風も力を増し艇速は7ノットを越えた。帆は3枚張りで目標きっかり60度を目指してくれる。海鳥の到来も船の生活に変化をもたらしてくれる。姿を見せずに排泄物だけを残す不逞の輩もいれば、何日も何日も便乗する無賃乗船鳥もまたいる。陸から遠ざかるにつれて、訪れる鳥の羽も胴も嘴も、細く鋭く精悍になってくる。丸味の帯びた鳥たちの出現は渡洋航海の終幕を告げることになる。カナダとアメリカを隔てるファンデフカ海峡を経て、ヴィクトリア港(カナダ)に入港したのは博多から5,000マイル、45日後であった。
  その間、実感したことのひとつは海は隔絶するのではなく世界をつなぐという事実。そしてひんぱんに心に問うたことは人間としてもっとも大切なことはなにかということ。大海原の優しさと厳しさの中で自分自身の半生とこんごを考え直すことができた貴重なひと夏の経験であった。

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