私は仕事がらよく地方に出かける。その時、しばしば感ずる事は「旅というのは、奥が深いなあ」ということだ。「旅はその人に非日常性を体験させてくれる」という言葉がある。この「非日常性」という言葉の裏には、旅先の住人にとって旅人は、異邦人にすぎないという意味も含まれている。
いままで日本人の観光旅行を振り返ってみると、名所旧跡めぐりからはじまって、さらに「テーマ旅」や冒険旅行と進み、最近は「何もないところ」に「何もしないで滞在する旅行」もみられるように変ってきている。これは旅の進化ではないかと思っている。
ところが「なんにもしない旅」もまた、たえず何かしなければならない「われわれの日常」にとって「非日常」なのだけれども、しかしこの域まで旅が進むと、旅人はこれまでと少しばかり異なった体験をするのではないか。「何もしない旅」の過ぎゆく日々、旅人が時の流れの隙間でフッとおそわれるやるせない哀愁。旅先で、身もだえするようなこの感情は、おそらく独身者が正月にもつ孤独感に類するものだろう。この哀愁は何なのだろうか。自分勝手な解釈を加えれば、どうも旅先の地域の人々(住民)がかもし出す「生活臭」にさらされた時、旅人がフッと自分を異邦人と感ずるのではないだろうか、と思う。では、その住民の「生活臭」とは何だろう。おそらく土に根づいた暮しをし、しっくり近所づきあいの出来ている人達の発する社会の質。おそらくそれは、化学肥料や農薬づけが身体に悪い、と手間ヒマかかる土づくりを集団で行い、新鮮な食物をワイワイいいながら仲間で楽しんでいる豊かさの質。
人間は動物だから、「身土不二」(身体と住んでいる土地は生態系でつながっている)が一番身体に良いことを知っている叡知の質。おそらくこういうものに旅先でふれた時、多くの現代の日本人は、自分をその地からはじき出された異邦人と感じ、もうひとつのタイプである少数の人はやみくもに住民の仲間に入り、そこで旅を放棄する。
こういう住民達の楽しい村が、いま日本の多くの片隅で新しくつくられつつある。通称「リフレッシュビレッジ」といわれている。土づくりを基本に、有機農産物をつくり、それを食材にして土地に合った料理を復活させ、汗ながして皆んなで連携とりながら農業をやる。自分達の食べたい物は自分達でつくり、自分達が排せつしたものは、もう一度土にもどし肥料にする。棄てる物なしの自立した地域経済をめざしている。こういうビレッジとふれ合って、カルチャーショックを受けそこに移住するも良し、自分の家に帰って、自分達の地域でリフレッシュビレッジをつくるのも良し。
いずれにしても、これからの旅は、都会人にそんなカルチャーショックを与える企画がおもしろいだろうなあと思っている。