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DATUMS 1997.02
全国に広がるファンクラブ

松浦 明恭  霧多布湿原ファンクラブ代表

■まつうら めいきょう
 1953年北海道厚岸郡浜中町霧多布生まれ。花園大学中退。正宗寺住職。93年霧多布湿原ファンクラブ代表。95年町議会議員。


  トントン・カンカンと板打つ音が80人の若者たちで渦巻く喧噪の中にこだまし、初秋の湿原の静寂を一瞬に切り裂きます。奈良県から修学旅行にやってきた帝塚山高校の生徒たちが、ヨシやハンノキ林の合間を見えかくれしながら、今にも砕けそうな腰つきで丸太を担ぎ、怖ず怖ずと金槌を振りおろしては木道(木の板を渡した道)づくりに挑戦しているのです。
  工作すらおぼつかない生徒たちの作業は遅々とし、打ち込むよりも抜く釘の数の方が多いので「おじさ?ん、この釘ぬいて」の声が絶え間なく飛び交います。しかし生徒たちの笑顔に屈託はなく、この明るさこそが木道に新しい命と価値を吹き込んでいるのです。
  この事業は、北海道教育大学釧路校の高橋忠一教授の提案により、湿原センター友の会(センターの外郭団体)と霧多布湿原ファンクラブ(以後ファンクラブ)が積み立て金を拠出し、浜中町や道庁から補助金を受け、場所が私有地であったことから、地主さんのご協力を得て実施されたものでした。地主さんは、地元で漁業を営む橋本鉄雄さんで、「俺たち漁師にとって自然は大事だし、なにせ子どもたちが喜ぶもんな」と、近くの山林も含めて快くお貸しくださったのです。このことにより、木道と丘の中腹にある湿原センター(ビジターセンター)と山林が一つのネイチャーコースとして接続され、俄然活用の幅と奥行が広がることになりました。
  木道づくりの実作業は、その過半を教育大の学生とファンクラブメンバーが、残りを浜中町に訪れた修学旅行の高校生たちが手がけました。帝塚山高校や大阪の上宮太子町高校、東京三鷹の明星学園の生徒たちです。彼らは、一人一枚の板を買い、汗の奉仕をするのです。自分の板を打ち終えるとマジックペンでサインをします。その一枚一枚が集まって木道になります。もし、彼らが再びこの地を訪れるとしたなら、きっと自分の名前を探すに違いありません。かくして昨年晩秋、幼児大のヤチボウズ(谷地坊主)や小清流をネイチャーポイントとする、全長約250メートルの木道が連結されたのです。 
  ファンクラブは、1986年に「この自然を子どもたちへ」と謳い、東京から脱サラしてこの地に移り住んだ一人の青年を中心に、地元の、職種を異にする青年たちが集まって、湿原周辺の私有地約33ヘクタールを借り上げて発足しました。年に数回の会報の発行、絵はがきや小冊子や湿原マップを作成したり、ふる里の魅力を再発見したり、仲間たちが集まることを楽しみとする活動のはじまりです。
  当時、霧多布湿原はヤチ(谷地)と呼ばれ、産業や生活に結びつかない厄介者扱いでした。ところが、ファンクラブの活動と相まって、93年のラムサール条約の登録湿地の指定や湿原センターの誕生などとともに一躍脚光を浴びることになったのです。
  ファンクラブの活動は“賛成運動”です。豊かな自然を残すことに賛成することが豊かな生活につながると考えるからです。今浜中町は、“厄介者”を見直し、一緒に暮らそうと考えはじめています。部屋に閉じこもってテレビゲームに興じていた子どもたちが休日のたびに湿原センターを訪れます。野鳥や花々の写真に興味を抱く大人たちも現れはじめました。そして地元の町立高校では、昨春より湿原観察を学習単位に取り入れたのです。
  ファンクラブは、これからも“霧多布湿原好きな人、この指とまれ”と叫び続けます。

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