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DATUMS 1998.01
ワクの外に出て、はじめて見えるもの

郡司 正人  国際労働機関(ILO)勤務

■ぐんじ まさと
 1961年生まれ。労働専門紙「週刊労働ニュース」記者を経て、97年1月からJICA派遣専門家として国際労働機関(ILO)アジア太平洋総局勤務。バンコク在住。


  人がそれぞれのおかれている組織、社会、環境の属性から離れてものを考えることは容易なことではない。そんな人間の思考に客観性や一定の普遍的性格を与えてくれるのが他者との対話だ。違った属性、言い換えれば、違う思考の立脚点を持つ者が、お互いのパターンにはまった考え方に風穴を開けあう――これが「交流」の原点だと思う。真の交流とは何かなんて、到底私が答えられる問いではないが、「交流」の楽しさ、大袈裟に言えば意義は、この単純な原点に集約されるだろう。
  他者との対話――「交流」を通してのみ、人間は自分自身の属性からほんの少し自由になれる。その自由さの中にこそ、新しい何かを創り出す喜びを見出すことができる。
  人間が営々とその歴史の中で得て来た「知恵」もこんな「交流」の装置から産み出されて来たものだと思う。歴史家がいかに歴史――積み重ねられて来た人間の知恵を判断しようと、現実の社会に住む僕らは、知恵を積み重ね、社会、身の回りに起こっているさまざまな課題に取り組んでいかなければならない。そのためにできるもっとも基本的なことは、あらゆるチャンネルでの交流を進め、深めることだろう。とくに、地球規模での価値観が揺らぎ、多様化、地域化してきている現状をみると、国や地域を越えた交流が未来にとって重要な意味を持つ。
  共産主義圏と自由主義圏の2大イデオロギー対立がもたらした均衡は、現実の地球の姿を覆い隠して来た。その強固な図式のなかでは、どんなレベルの交流もそれぞれの属性のくびきを超えることはできなかったように思う。一見、秩序が存在するように見えたこの時代を、懐かしむ声があるのも理解できなくはない。しかし、今、目の前にあらわれた価値観の多様性に富んだ地球がその本来の姿なのだろう。
  多様性を保ちながら、普遍的とはいかないまでも、一定の共通した価値観を持つことは不可能なのだろうか。カチッと一本にまとまった価値観を創り出すことは難しいとしても、人々の心の中で公益性、社会性という発想がなくならない限り、その心と心を結ぶことは出来るだろうし、また、似通った価値観を持つグループのなかで、その公益性を担保する何らかのしくみ――ここで言うのは、きちんとした機構を持ったしくみだけでなく、社会的コンセンサスを生み出す社会的装置――を創り出すことは可能だと思う。そのための「知恵」も「交流」なくしては有り得ないものだろう。
  グローバル化だ、メガコンペティションだという最近のホットな論議では、経済による統合、秩序づくりが先行している。ややもすると、市場万能主義的な風潮は、あらゆる社会から公益性、社会性の発想を奪ってしまう恐れがあるように感じるのだが、いかがなものだろうか。「官から民へ」に象徴されるこの流れは、今まで公益性、社会性を担保してきた官というプレーヤーがその役割を縮小することを意味する。そうなったら次のプレーヤーは? この混沌とした現状は、従来の国家と国家というレベルでなく、もっと草の根レベルから生み出される新しい秩序を求めているように思われてならない。実際に、CBO(コミュニティ・ベースド・オーガニゼイション)あるいはNGOを中心とした草の根レベルでの国際交流がさかんに行われるようになってきた事実は、この問いへのひとつの回答だろう。
  大風呂敷を広げて、脈絡のない話しをしてきたが、まあお正月だから許されるだろうと勝手に考えている。組合は重要なSocial Actor のひとつであり、またNGOでもある。社会的ソフト面での労働運動の活動が、僕らのより良い未来へとつながるよう、自身も含めて(実際に、私も連合の組合員)肝に命じて行きたい。どんどん、実のある国際交流をしよう。

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