労働情報センターレポート No.6 

戦後建築・街並みとその価値



はじめに


 東京では、21世紀に入り各所で大規模な再開発が行われてきたが、さらに建築物の老朽化、東日本大震災による耐震基準の見直し、2020年の東京オリンピック・パラリンピック開催も加わり、現在(2017年7月現在)も街並みが大きく変わってきている。

 古くは江戸時代の大火や、近代以降の震災・戦災で、東京の街並みはそのつど姿を変えてきた。そして現在も、私たちがふだん何気なく目にしている街並みや建物が、スクラップ・アンド・ビルドの波にのまれ、いつの間にか姿を消している。

 本稿では、ごく普通に目にする戦後の建築物や街並みに着目し、その価値を探ってみたい。以下、オフィスビル・商業ビル/団地(集合住宅)/横丁・路地/地下街の4項目について述べる。


再開発がすすむ渋谷駅付近
昭和45(1970)竣工の東急東横店南館(手前左)と平成24(2012)年竣工のヒカリエ(中央やや右)

オフィスビル・商業ビル

 都内には無数のオフィスビル・商業ビルが林立しているが、近年あらたに建てられ話題にのぼっているものもある中で、高度経済成長期に建てられた築50年選手がいまだ現役でその役割を果たしている。今回取り上げたいものは後者で、ここでは7つのビルをみていくことにする。


①新橋駅前ビルとニュー新橋ビル

 JR新橋駅汐留口の正面、特徴的な外観でひときわ目立っているのが「新橋駅前ビル」だ。このビルは1966(昭和41)年に完成。今でさえ近未来を思わせる銀色の壁面、整然と並ぶ独特な窓と建物の複雑な形状は、周囲のビルとは明らかに一線を画しており、当時もっともモダンなビルだったことは想像に難くない。特に窓ガラスは、すべて輸入したプロフィリットガラス(コの字型に成形したガラス)を用いており、設計者の並々ならぬ意欲がうかがわれる。いっぽうで現在の建物内部、特に地下は昭和の香りを色濃く残す飲食店街となっており、辛党たちが日々の疲れをいやしている。

新橋駅前ビル(左)とニュー新橋ビル(右)

 場所はかわって駅の反対側、テレビのインタビューコーナーでもよく知られる駅前のSL広場のすぐわきには、1971年(昭和46)年に完成した「ニュー新橋ビル」がある。もともとは闇市があった場所の再開発によって建てられたビルで、こちらももちろん現役だが、新橋駅前の再開発にともなって取り壊しの話も出ている。しかし地権者が多く手続きが複雑であることを理由に、現在は保留されているようである。
 このビルの特徴はなんといってもビル下層階の外側を覆う白い網目模様だろう。一見不規則に見えるが、フィボナッチ数をもとに作られている幾何学模様であると聞いた。また内部には高層階のオフィスのほか、低層階には飲食店やチケットショップをはじめ多種多様な商店が入居しており、新橋駅前ビル同様、壁やエスカレーター、階段などが醸し出す年代物の風情の中、昭和の香りを楽しみながらビル内を散策するのも楽しい。

②有楽町ビル・新有楽町ビル

 ひと駅となりの有楽町にも、高度経済成長期に建てられたビルが多い。日比谷口に隣り合うこれら二つのビルも、1965~69にかけて完成したもので、正式名称の「ビルヂング」がいかにも昭和という印象を抱かせる。いずれも三菱地所の設計だが、外観の印象は大きく異なる。有楽町ビルの3階以上は、建物の荷重を直接負担することのない外壁(=カーテンウォール)となっており、当時では最新の工法であった。一方で新有楽町ビルは、壁面の青いタイルが重厚さを醸し出すいっぽう、角に丸みのある窓枠が柔和さをみせている。また、有楽町ビルの内部には陶板タイルが多く使われており、モダンな中にも民芸調が同居するデザインとなっている。


(上)有楽町ビルのカーテンウォール

対照的な外観の新有楽町ビル 有楽町ビル内の陶板タイル
 


③パレスサイドビル

 皇居北側の竹橋には、名建築とうたわれるパレスサイドビルがある。設計は林昌二。特徴は両端に配置された白い巨大な円柱状のコアシャフトで、ここにエレベーターや階段、配管等を集中して配置することで、フロア面積を最大限活用することができている。この構造は五反田にあるポーラ本社ビルも同様で、同じく林の設計である。
 外観は有楽町ビルと同じくガラスのカーテンウォールの工法が用いられており、英国風の技法を活かして特別に造られた、建物両端の「パレスサイド特殊レンガ」とのコントラストも非常に美しい。内部では、地下へ降りる「夢の階段」の造形が素晴らしく、まるで宙に浮かんでいるように見える。およそ昭和41(1966)年に作られたものとはとても思えない。なお、このビルは平成11(1999)年、日本建築学会の「近代主義建築20選」に、戦後のオフィスビルの中で唯一選定されることとなった。

パレスサイドビル。白いコアが印象的

素晴らしい造形の「夢の階段」


④目黒区役所本庁舎

 もしかすると、年配の方の中にはレナウンの「イエイエ」のCMを思い出す方がいるかもしれない。まさにそのCMの舞台となったこのビルは、現在は目黒区役所の本庁舎として使用されているが、かつては千代田生命の本社社屋であり、数々の名建築を手がけた村野藤吾の作品である。竣工年はパレスサイドビルと同じ昭和41(1966)年だ。
 アルミ合金でできた白色のルーバー(「羽板」という細い板を隙間をあけて組んだもの)が整然と建物を覆い、オフィスビルによくあるような、鉄とガラスの表面で光を跳ね返す建物ではなく、中目黒の住宅街の中で「光を吸収し、街と共存する」という村野藤吾のコンセプトがみごとに体現されている。

整然と配置されたルーバーが美しい

 このように、建物の用途を変更して持続的に利用してゆく手法は「コンバージョン」と呼ばれ、建物を壊さず、外観をはじめ使用できる部分を活かしながらリノベ―ションしていくことから、環境に配慮した工法として注目を集めている。世界的には、もともと駅舎だったパリのオルセー美術館が有名だが、直近では商業施設に生まれ変わった丸の内の旧中央郵便局や、同じく商業施設となった小樽運河や函館の倉庫群、オフィスビルから賃貸住宅に変貌を遂げたラティス芝浦といった例がある。


⑤中野ブロードウェイ

 こちらも同年竣工、今年で50周年を迎えた。今では「まんだらけ」をはじめとした多くのテナントが世界的にも有名となり、すっかりサブカルチャーの聖地となった中野ブロードウェイだが、竣工当時は、ショッピングモールとラグジュアリーマンションの複合体という斬新なコンセプトが世間の注目を集めた。なお、設計者は原宿駅前の高級マンション、コープオリンピアも手がけている。
 内部は、地下が食料品など、1階から3階までは商店や美容院、はては各種の医院まで揃っている。1階は、3階までの吹き抜け構造となっており、見上げると2階通路からバルコニーが張り出しているのが見えるが、ひとつひとつが異なったデザインになっているところに遊び心が感じられる。4階以上は住居で、残念ながら中に入って見ることはできないが、かつては超有名歌手も住んでいたという超高級マンションは今でも人気の物件だそうで、居住している知人がいればゲストルームに宿泊することもできるとのことだ。

50周年を迎えたブロードウェイ。あまたのテナントがひしめく。

張り出したバルコニーの形状の違いに注目

 

団地(集合住宅)

 「団地萌え」という言葉がにわかに脚光を浴びたのは平成19(2007)年ころだったろうか。「工場萌え」「ジャンクション萌え」というブームを産み出した、フリーライターで写真家の大山顕氏によるものである。団地といえば、いわば日常的にどこででも目にする、無機質で同質な、とくに注目すべきものでなかった建物だが、周囲の街並みの変化の中で、そのたたずまいがいつのまにかレトロ感あふれるものとなり、またその歴史や生活文化といった背景も注目され、時に老朽化のための建て替えを前にしてにわかに注目されるようになった。 本レポートでは4つの事例を紹介する。

①ひばりが丘団地

 まず紹介するのは、今上天皇が皇太子時代に訪れたことでも有名な、保谷市・田無市(現西東京市)と東久留米市にまたがって立ち並んでいたひばりが丘団地である。現在は老朽化のため建て替えられ「ひばりが丘パークヒルズ」として同じ敷地に新しい建物が立ち並んでいるが、昭和34(1959)年の竣工当初は、最先端の生活を送ることができる、庶民羨望の住宅だった。
 標準的な直方体5階建ての棟が立ち並ぶ中、特に人気を集めたのがスターハウスと呼ばれる棟で、真上から見るとY字型をしており、同じ階に3部屋、そして各部屋が独立している点が人気となった所以だ。この建物はひばりが丘団地には現役としては残っていないが、自治会の集会所として1棟のみが保存されている。なお、その前には当時の皇太子夫妻が訪れたベランダも保存展示されている。

集会所として残されたスターハウス 皇太子(当時)ご夫妻が訪れたベランダ



②赤羽台団地
前述のひばりが丘団地は、太平洋戦争後解散した中島飛行機の工場跡地に建てられたが、この赤羽台団地は陸軍被服工廠跡地に建てられた、23区内最初の団地である。竣工は昭和37(1962)年とひばりが丘団地より3年遅いが、老朽化には勝てず、現在はひばりが丘同様「ヌーヴェル赤羽台」という近代的集合住宅へと建て替えが進行中である。しかし、ここには住民が居住する現役のスターハウスが存在しており、また標準的な棟も一部、建て替えを待ちながらその姿を残している。

赤羽台団地に残るスターハウス 建て替えが進行中の敷地内

標準的な棟も残っている


③高島平団地

 都区内最大のマンモス団地として有名なのが板橋区の高島平団地である。それまでの標準では5階までだったが、一挙に11~14階建ての高層建築となり、その数30棟以上。戸数も1万をこえた。
入居は1972(昭和47)年から始まり、現在のところ建て替えは行われていないが、無印良品とURのコラボレーションによる、団地の良さをあらためて見直し、理想の家をつくるというコンセプトの「MUJI×URリノベーションプロジェクト」によって、団地の再生が行われている。(詳細はhttps://www.ur-net.go.jp/chintai/muji/を参照)


圧巻の高層建築。これだけの規模で建ち並んでいるのも壮観だ。


④駒込ガーデンテラス

 ひばりが丘団地をはじめ、団地の中で入居者に人気があったのがスターハウスともうひとつ「テラスハウス」だ。テラスハウスは主に2階建ての長屋構造で、各戸に庭があるつくりとなっている。東京ではひばりが丘団地のほか、阿佐ヶ谷住宅や多摩平団地などにもあったが、残念ながら現存するものはない。ところが、北区は田端に、最近注目されているテラスハウスがある。
JRが複雑に交差する地点、まさにトンネルの真上に位置する立地のため、高層の建築物が立てられない土地に、旧国鉄の社宅として建てられたテラスハウスが昨今、大胆なフルリノベーションを経て「駒込ガーデンテラス」として新たに生まれ変わったのである。住宅の骨格はそのままだが、各棟ともデザインや庭などが現代的にリノベーションされ、レトロな団地的印象を残しつつも、たいへんモダンなつくりとなっている。

団地の面影を残しながらも現代的に生まれ変わったテラスハウス

 
ロゴもかわいらしい  



横丁・路地

 戦後の混乱期、東京の各所にあったヤミ市は、復興とともにその後しだいに姿を消していったが、都内にはその面影を残す街並みがいくつか残されている。上野から御徒町にかけて、JRのガード脇で今も賑わうアメヤ横丁、狭い路地に間口の狭い飲食店がひしめく新宿西口の思い出横丁などはその代表格であり、現在は多くの観光客が訪れる場所となっている。

今やすっかり有名観光地となった思い出横丁


 しかし、私たちが生活する街にも、面影ある街角はひっそりと、そしてなにげない風景として残っている。ここでは、都内にあるいくつかのものを紹介する。


①下北沢駅前食品市場

 京王井の頭線と小田急線の交わる下北沢駅前にあるこの市場は、小田急線の地下複々線化工事に伴う再開発と、そもそもの老朽化のため、多くの人に惜しまれつついまその歴史を終えようとしている。現在(2017年6月)はほとんど取り壊し・閉店となっており、残念ながらほんの少ししか面影は残っていないが、かつては地元の人で賑わう、いかにも下北沢らしいたたずまいであった。

すでに取り壊しの最中だった下北沢駅前食品市場。



②中野駅北口・高円寺駅ガード付近・荻窪駅北口

 中央線沿線は都心部が空襲の被害を受けた際に疎開のため人口が流入し、終戦直後に多くの闇市ができることとなった。まず中野では、北口改札正面からブロードウェイに抜けるサンロード商店街を直角に横切る路地、特に東側の街区は、ヤミ市の風情を色濃く残す街並みとなっている。

道幅は極端には狭くはないが、往時をしのばせる雰囲気だ。


 お隣の高円寺駅では、北口はねじめ正一の小説で有名な高円寺純情商店街があり、多くの人でにぎわっているが、中央線ガード沿いには縦横に走る細い路地、そこに軒を並べる間口の狭い飲食店や、商店のひさしが触れ合う、まるで市場のような区画など、まさに闇市的な風景の中、活気にあふれる街並みとなっている。

(左上)人がやっと通れるくらい
(上)建物内にも市場が
(左)庇でアーケード状になっている路地



 いっぽう荻窪駅北口かいわいは、建物やアーケードの一部に闇市の面影を残しているものの人通りはさほど多くなく、高円寺とは対照的な印象だ。

荻窪駅北口界隈


③吉祥寺ハモニカ横丁

 新宿の思い出横丁は、居酒屋をはじめとした飲食店がほとんどだが、吉祥寺駅北口にある「ハモニカ横丁」には、飲食店だけではなく、青果店や鮮魚店ほか、いまも地元の人々の生活に密着したお店をはじめ、新たな店舗も加わり、その数はおよそ100軒にのぼる。まさに闇市にルーツを持つこの横丁は近年「散歩の達人」などの街歩き雑誌にも取り上げられ、新宿の思い出横丁と同じく、観光地としての側面も持つようになっている。こちらも耐震や防火の観点から何度も取り壊しの話が持ち上がったようだが、現時点では保留となっているようだ。

ハモニカ横丁の入り口と内部(右から3点)

 
   



地下街

東京に戦後できた地下街は、その成り立ちがそれぞれ異なっているのが面白い。初めにできたのは、銀座の「三原橋地下街」であるが、当時GHQの管理のもと、埋め立て地の露天商の一部を収容するために1952(昭和27)年に生まれ、銀座四丁目交差点からさほど距離がない立地ながら、闇市的な雰囲気が色濃く残っていた。残念ながら耐震性の問題で平成26(2014)年にその姿を消している。渋谷地下街(通称「しぶちか」)も、引揚者・戦災者が営んでいた露店から始まっているが、こちらは自力での更生対策として、彼ら自身が計画しつくられたものという点で、三原橋のそれとは大きく異なっている。
 昭和30年代になると、モータリゼーションの進展をうけ「人と車を分離する」という社会的な課題が顕在化する。そこに駐車場や、人道としての「地下道」ができ、さらに経済的な開発として地下「街」として商業活動が行われることとなった。さらに、1962(昭和37)年の法改正により、建物の高さを定めていた「地上32m」の枠が外され、高層建築が生まれたことによる地下部分の開発、そして地下鉄網の拡大や地価の高騰といったことから、東京の地下は進化を遂げてきた。本稿では以下3つの地下街を取り上げてみたい。


①浅草地下街

 三原橋地下街に次いで古いのは、1955(昭和30)年にできた浅草地下街である。これは浅草新仲見世の商店主の有志が浅草地下道株式会社を設立し、東京都の「地下街許可第一号」の認可を受けて作った。現在はだいぶ老朽化が進み、むき出しの配線や漏水などの問題があるものの、昭和の香りを色濃く残していることから、規模は小さいながらも、観光に訪れる人は後を絶たない。

年季の入った天井や床、時間的に閉店のお店が多く寂しい印象となってしまった



②八重洲地下街

 八重洲地下街は、まさにモータリゼーション時代の申し子として、もともとは東京駅八重洲口地下の公共駐車場開発からその歴史がはじまった。先行して開業していた駐車場につづいて地下街が完成したのは1965(昭和40)年と69(昭和44)年の2度の工事によるもので、現在では八重洲地下街単体でも都内地下街の中で最大の売り場面積を誇っており、直結する東京駅一番街や大丸デパート、グランルーフとともに巨大な商業空間を形成している。

八重洲地下街のようす。内装は非常に綺麗だが、階段は昭和の雰囲気(右下)

 

③新宿の地下街

 新宿も地下街が発達している街だ。もっとも古いのは1959(昭和34)年にできた小田急エースタウン、つづいて1963(昭和38)年の京王モール、翌年は東口に新宿ステーション・ビルディング地下街(現在のルミネエスト地下)、そして最後にできたのが1968(昭和43)年の、新宿サブナードである。これらのうち、新宿ステーション・ビルディング地下街以外はすべて、八重洲と同じく地下公共駐車場開発からスタートしており、合計では1076台もの車が駐車可能である。

 


まとめ――時を積み重ねてゆくこと

 では最後に、戦後建築と街並みのもつ「価値」とはいったい何だろうか。
 冒頭に書いたとおり、東京の街はいま急速にその姿を変えている。今までそこにあったものが跡形もなくなり、そのあとには何もなかったかのように、新しい建物や街が姿をあらわしている。しかし、その場所や、そこにあった建物や街には、積み重ねられてきた「時」があった。それをなかったことにして、果たして未来の東京の街は意味を持ちうるのだろうか。

 紹介したオフィスビルや商業ビルは、太平洋戦争の荒廃から驚くべき復興を遂げた高度経済成長時代、設計事務所や建築家たちが、その当時最新の技術やデザインを駆使し、新生・日本の豊かさを描き出そうとした渾身の作品だったとは言えないだろうか。

 団地での新たな生活は、「しつらえ」によってひとつの部屋にさまざまな機能を持たせる、従来の日本家屋における生活文化から、反対に機能によってそれぞれの部屋を分けるという、住むことに対する考え方のコペルニクス的転回であり、ひいてはそれが、その後の家族や社会の変容、また経済発展に善かれ悪しかれ密接に影響してきたのではないか。

 横丁や路地は、単に昭和レトロを懐古する対象なのではなく、まさに戦後すぐの時代を、時を超えて私たちに伝え続けている貴重な生きた資料であるとともに、人が集まる「街」とは何か、その原点をずっと私たちに提示してきた存在なのではないのか。
 
 地下街は、「建て替え」られることはないまでも、改修や改装を経て見かけの姿を変えながら、現在もまさに都市基盤整備の、生きている歴史そのものとして存在しているのではないのか…そして、これらのストーリーが、街のすばらしい価値そのものでないと言えるだろうか。

 今後の東京の街を考えるとき、防災をはじめとするさまざまな観点からも、スクラップ・アンド・ビルドを全否定することにはならないだろう。しかし今後の社会は、経済合理性だけを優先してきたことへの真摯な反省の上にたち、ゆるやかにストック型に転換すべきだとも筆者は考えている。だがスクラップ・アンド・ビルドであろうとストック型への転換であろうと、両者ともに、街の「積み重ねられてきた時」という代えがたい価値を後世につなげてゆくことも、街づくりにおけるきわめて重要な使命ではないだろうか。

 東京は、パリや京都に決して追いつくことはできないかもしれない。しかし何百年かの後に、積み重ねられた時の物語の厚みの上に泰然とたたずむ都市であってほしい、と願っている。
 

■参考文献
シブいビル 高度成長期生まれ・東京のビルガイド 鈴木伸子著 写真・白川青史(リトルモア)
東京ノスタルジック百景 失われつつ昭和の風景を探しに フリート横田著(世界文化社)
世界に誇れる東京のビル100 宮元健次著(エクスナレッジ)
東京ディープツアー 黒沢永紀著(毎日新聞出版)
東京建築みる・あるく・かたる(京阪神エルマガジン)
東京建築さんぽマップ(松田力 エクスナレッジ)
日本の地下街 その商業機能 杉村暢二著(大明堂)
東京人(No.371およびNo.383)
東京大改造マップ(日経BPムック)
集合住宅物語 植田実著(みすず書房)
身近なところからはじめる建築保存 穎原澄子著(弦書房)
現代の建築保存論 鈴木博之著(王国社)
BRUTUS 2017年7月15号 建築を楽しむ教科書(マガジンハウス)