SQUARE:2004.Spring













フリーランス・ライター
たかやま かずえ


TOP >> SQUARE



 2003年3月のアメリカのイラク攻撃は世界中を震撼させる出来事であった。国連の査察の結果を待たずに戦争に突入したアメリカの大儀は何であったかも不明朗なまま、アメリカは戦争終結宣言をした。イラクの人々の悲痛な叫びに反して、現実の戦争が悲惨なものと映らないのは、見慣れたテレビゲームの一コマだからであり、戦争を知らない世代は過半数を越え、戦争中継はあたかも遠くから見る打ち上げ花火の感覚しかないからだ。駆使する高度な兵器は遠距離操作、戦争する側は美しい戦争を演出する。そこには戦争される側の言葉も影すらも消される。炎上する炎と煙、破壊された建物だけが映し出される。バグダッドの街は平静を保っているかのように見える、その演出効果に「バグダッドはきれいなところじゃない?」それから「車が走っているよ。大したことはないよ」という。戦争は嫌というほど中継され、米軍の戦闘の一部始終が映し出されていた。慣れてしまった戦争映像。慣れるというより、慣らされるというのが正確かも知れない。
 アメリカの攻撃が近づく中、バグダッドの2人の友人に電話をかけた。その日は1週間前だったと記憶している。「大丈夫」と尋ねると「大丈夫よ」と気丈な声が受話器から聞こえた。それから、攻撃の前日、再び電話をかけた。「怖いわ」と、かすかな声があった。1週間前までは彼らにとってもアメリカが本当に攻撃してくることを信じていなかったようだ。たぶん、彼らに残されたもの、それは世界の世論が味方し、戦争を回避してくれるのではないかという希望をつないでいた。また、国連に対して、私たちはありったけの協力をしたではないか、という信念と国連の機能を評価していた。電話口から聞こえる声にならない声に私は2人の家の間取りを思い出していた。攻撃されるだろう明日、彼らは家族揃ってどこの部屋にいるのだろう、と。その日、テレビの画面は戦争開始を勝ち誇ったブッシュの顔があった。





 イラクは発展途上国ではない。ちょっと手を加えれば第一世界になる国である。1991年の湾岸戦争後からの長い経済制裁がイラクの発展を妨げてきた。石油の埋蔵量は世界で第2位、その石油の輸出も国連の管理下に置かれ、自由な貿易も制限されていた。一部許可した石油販売の収入は食料、医療、教育分野に使われ、その半数は国連が管理していた。このような経済状況はイラクの国民を困窮させるだけであった。イラクの人々の生活、とりわけ、子供たちの教育を根こそぎ剥ぎ取るような状態だったことはいうまでもない。湾岸戦争で使用された劣化ウラン弾はイラクの全土を覆い、子供たちは病院のベッドで横たえ、その主治医は「薬がない」「私たちは今何も出来ない」と訴えていた。最低限度の医薬品、医療機器にも経済制裁は圧し掛かっていた。平和のための国連が米英の意思により、独立した国家に経済制裁を加え、その上、米英が勝手に線引きした飛行禁止区域での断続的な空爆にイラクの人々は常に恐怖と隣り合わせの生活を余儀なくされていた。















 しかし、そのイラクに明るい兆しが見えていた。米英軍の度重なる飛行禁止区域の空爆に反対する国際社会の世論が高まり、国際法違反を犯すアメリカに抗議の声が上がっていた。また、国連憲章に違反する経済制裁は解除せよとの運動も高まりを見せていた。湾岸戦争時、米軍の使用した劣化ウラン弾による後遺症で多くの子供たちが病院のベッドで横たわる姿の写真がメディアを通して伝えられ、また、写真展も開かれ、平和団体の支援も活発化し、ようやく日本にも「イラク」の真の姿が紹介されつつあった。
 中東諸国、ロシア、中国、フランスなどは国連の経済制裁を無視し、イラクとの門戸を開いた。近い将来、経済制裁が解けて、イラクの経済が潤い、イラクの飛行機が日本へ乗り入れ、日本から多くの観光客がイラクへ行き、そこにはメソポタミア文明の発祥地、平和なイラクな築かれ、更なるメソポタミアの研究に考古学者が集う……そう思っていたのは私だけではない。イラクの人々こそ真の平和を望んでいた。度重なる戦争を経験し「もう戦争は嫌だ」と心の底から叫んでいた。





 バグダッドの住宅地にアメリア・シェルターがある。湾岸戦争時、422人がこのシェルターに非難していた。そのうちの406人が死亡、130人が子供たちであった。アメリカを中心とする爆撃の1発目は厚さ1メートルの鉄筋コンクリートの天井を突き抜け、2発目の爆弾は床を垂直に地下で爆発した。このシェルターは記念館として、爆撃当時のそのままに保存されて、ここを訪れる人々に戦争の恐ろしさを伝えている。壁に掲げられた子供たちの遺影が並ぶ薄暗い、湿った空気に触れるとそこは広島、長崎の同じ痛みを分かち合っているようだった。千羽鶴に願いを込め、平和の大切さを訴えていた。

shelter
 その一方でアメリカは、フセイン大統領が核兵器を製造し、他国へ侵入する用意があることを強調し、悪の枢軸と謳い、凶悪犯、戦争犯罪人のレッテルを全世界に撒き散らしていた。また、観光者への危険情報は常に治安の悪化、略奪、騒乱と、イラクの国内情勢はあたかも反乱、内乱、内戦状態にあって、ならず者国家は治安が悪くて当たり前、略奪があって当たり前、身の危険を保障しない国、それが独裁国家、フセインの国だ、といったプロパガンダが先行していた。
 そのならず者国家イラクは身の危険を感じる国であったか?答えは否。2002年10月、1ヶ月間の滞在のバグダッドは爽やかな風が吹いていた。異邦人に人懐っこい笑顔で接してくれた。「湾岸戦争後、私たちたちの手で橋も建物も修復した」「経済制裁が解かれれば私たちは何でも出来る」と、イラクの人々は胸を張って答えていたのが印象的だ。バグダッドの街にテロはあったか?否。暴動はあったか?略奪は?すべての答えはNOと答えることが出来る。歴史を感じる街並み、色彩豊かなモスクは青い空に悠々とそびえ、人々を深く包み込んでいた。水道も電気も電話もテレビも、そして、車も、生活に支障をきたしているバグダッドではなかった。
 にもかかわらず、アメリカのイラク攻撃は着々と進められて行った。世界の厳しい世論にも耳を傾けず、新しい植民地を求める大国アメリカはまさにガリバーそのものであり、かたや、アメリカに歯向かう国家や人物はアメリカの敵になるという構図を顕にした。アメリカのいう悪の枢軸国とはアメリカに利益を生まない、もたらさない国家ということになる。




 湾岸戦争後からようやくひとり立ちしようとしていた矢先、国際社会に中で徐々に光を見出していた時期、イラクの人々にも湾岸戦争の傷跡が少しづつでも癒えつつあった時期、しかし、これらの明るい光はアメリカのイラク攻撃、戦争という一番残虐な行為によって一瞬にして光を闇に変えてしまった。
 戦争後、テロが勃発している。アメリカの占領下、自らの国家を持たないイラクの人々の反発はテロへと変貌していく。もし、戦争がなかったならば、テロは起こらなかったはずだ。迷彩服を身にまとう外国の軍隊が市民に銃を向けながら街中に戦車を走らせる、この光景が自由と解放だったというのだろうか。
 戦後復興支援は誰のために、何のためにあるだろうか。戦争で破壊されたインフラ設備が復興支援だという。フセイン政権下よりも治安はもとより、水道、電気も悪化している現状をどのように説明するのだろうか。アメリカの占領下のイラクはテロが横行し、テロ撲滅のための戦いだ、とすり替えるのだろうか。
 怪獣に狙われたイラクの悲劇は中東に位置する富の国、オイルの国であることにも拠る。怪獣は長い間中東を徘徊し、獲物を狙い、襲い、次々と漁って行った。そうして、怪獣の悲願であった「イラク」をとうとう飲み込んだ。そして、次の獲物を狙っている。この怪獣の行き着く場所は獲物をお腹の中にいっぱい溜め込むことだけのようだ。この怪獣はやがて地球を滅ぼしかねない。この怪獣を捕らえる手立てがあるとすれば、それはアメリカ自身の良心である。





 昨年末、都内で人権団体の賞を受けたアメリカの平和活動家ぺギー・ギッシュさんと会食する機会を得た。戦争時の写真は、「これがイラク?」と思うほど私がイラクで撮った写真とは大きく違っていた。どの写真も黒ずんで、霞がかかっているようだった。「私の写真を見てよ」と忙しい彼女を強引に引っ張って我が家に来てもらったのは、戦争前の平和なイラクの写真を見てもらいたかったからだが。
 ペギーさんはバグダッド中心部のホテルに泊まっていた3月28日未明、大きな爆発音にたたき起こされた。近くの電話局にミサイルが命中し、レストランやホテルの一部も被害を受けた。現場を見に行き、警察官に捕まった。警察官はペギーさんらの行為に戸惑っていたが、翌日強制退去となった。「警察官はとても紳士的でした。湾岸戦争やアフガン戦争時に私の国でアラブ出身者がどんな扱いを受けたか知っている。ここの国の人たちは、自分たちを攻撃する国から来た私たちを人間として扱ってくれた」
 また「各地の病院では多くの重傷者を見舞った。5歳の少女は半身不随でベッドに横たわり、12歳の少女は腹に5センチほどの穴が開き、内臓が見えて苦しんでいた。体中に細かい爆弾の破片を浴びて取れない人もいた。すべて一般市民だった。これがイラク民衆を解放するため?民衆にはまったく関係ない、独裁者同士の戦争にすぎない」とペギーさんは断言する。「意味のない戦争を始めた自分の国が恥ずかしい」と語るペギーさんは正月明けとともに3度目のイラク入りをした。ぺギーさんのような、アメリカとアメリカの人々の良心がアメリカ全土に大きなうねりとなって、芽生え、広がることを期待する。




 そのイラクの情勢はなおも混沌としている。戦争開始から1週間後に途絶えた電話は正常になった。「戦争中、大変だったわ」「水と電気が止まってね」「今?仕事は一週間に一日だけ行くの。それも外に出て、今日は大丈夫かどうか様子を見てからね。まだ、危ないからイラクに来てはダメよ」と友人はいう。また「いろいろマスコミで言われているけれど信用しないでね」と、もう一人の友人は私にメールを送ってきた。イラクの人々さえ、これから自分の国がどのような状況で、どのように変わろうとしていくのかも理解できないでいる。アメリカの占領下、イラクの人々が自らの力で新しい国家を作ることは至難の業のような気がする。アフガニスタンの先例もあるように、アメリカ側に有利に働く人々を主要なポストに就かせ、公にはイラクの民主主義が成り立ったかのように宣言するのは時間の問題か、それとも、このまま不安定な情勢を遠くから見守るしかないのか、どちらにしてもイラクの人々の安らぎはしばらくやって来ないような気がする。
 アメリカの攻撃がなかったならば、バグダッドの街はオンボロ車がスイスイと走り、街のあちこちで鶏の丸焼きの匂いが立ち込め、人々は「明日はどうにかなるさ」と「今日」という日を過ごしていただろう。給料が少ない、と不平不満はつきものだが、友人は毎日オフィースに通い、変わらない日常が今日もあったに違いない。

 自分の国は自分で守る、これこそが独立した国家のあるべき基本の姿である。外国の軍隊が力を持って統治しようとするなら市民からの反感、反発は増すばかりである。1980年代、日本がかつて行ってきた経済援助、技術援助を思い出して欲しい。そこには日本を象徴する建物がいくつもある。自衛隊派遣に伴う莫大な費用をイラク市民の欲している経済援助に使うことが出来たら、そこにイラクと日本の友好関係は保たれる。イラクの人々が望んでいるもの、それは「自分たちの国」であり「自分たちの民主主義」である。